最高裁判所大法廷 昭和38年(オ)1408号 判決 1967年11月01日
上告人
黒須キン
代理人
高橋方雄
被上告人
坂東運輸株式会社
代理人
遠藤良平
主文
原判決を破棄する。
本件を東京高等裁判所に差し戻す。
理由
上告代理人高橋方雄の上告理由について。
論旨は、要するに、原判決が慰藉料請求権は一身専属権であり、被害者の請求の意思の表明があつたときはじめて相続の対象となると解したのは、公平の観念および条理に反し、慰藉料請求権の相続に関する法理を誤つたものであるというにある。
案ずるに、ある者が他人の故意過失によつて財産以外の損害を被つた場合には、その者は、財産上の損害を被つた場合と同様、損害の発生と同時にその賠償を請求する権利すなわち慰藉料請求権を取得し、右請求権を放棄したものと解しうる特別の事情がないかぎり、これを行使することができ、その損害の賠償を請求する意思を表明するなど格別の行為をすることを必要とするものではない。そして、当該被害者が死亡したときは、その相続人は当然に慰藉料請求権を相続するものと解するのが相当である。けだし、損害賠償請求権発生の時点について、民法は、その損害が財産上のものであるか、財産以外のものであるかによつて、別異の取扱いをしていないし、慰藉料請求権が発生する場合における被害法益は当該被害者の一身に専属するものであるけれども、これを侵害したことによつて生ずる慰藉料請求権そのものは、財産上の損害賠償請求権と同様、単純な金銭債権であり、相続の対象となりえないものと解すべき法的根拠はなく、民法七一一条によれば、生命を害された被害者と一定の身分関係にある者は、被害者の取得する慰藉料請求権とは別に、固有の慰藉料請求権を取得しうるが、この両者の請求権は被害法益を異にし、併存しうるものであり、かつ、被害者の相続人は、必ずしも、同条の規定により慰藉料請求権を取得しうるものとは限らないのであるから、同条があるからといつて、慰藉料請求権が相続の対象となりえないものと解すべきではないからである。しからば、右と異なつた見解に立ち、慰藉料請求権は、被害者がこれを行使する意思を表明し、またはこれを表明したものと同視すべき状況にあつたとき、はじめて相続の対象となるとした原判決は、慰藉料請求権の性質およびその相続に関する民法の規定の解釈を誤つたものというべきで、この違法が原判決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして本訴請求の当否について、さらに審理をなさしめるため、本件を原審に差戻すことを相当とする。
よつて、民訴法四〇七条一項にしたがい、裁判官奥野健一の補足意見、裁判官田中二郎、同松田二郎、同岩田誠、同色川幸太郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
裁判官奥野健一の補足意見は、次のとおりである。
民法七一〇条は「他人ノ身体、自由又ハ名誉ヲ害シタル場合ト財産権ヲ害シタル場合トヲ問ハス前条ノ規定ニ依リテ損害賠償ノ責ニ任スル者ハ財産以外ノ損害ニ対シテモ其賠償ヲ為スコトヲ要ス」と規定し、身体、自由等の非財産的権利を財産権と全く同列に置き、共に不法行為の対象となる法益とし、かつその損害に対しては、財産権侵害の場合と同様、原則として金銭賠償により、これを救済せんとするのである(同法七二二条、四一七条)。
従つて、非財産権が侵害された場合は、財産権が侵害された場合と同様、その侵害と同時に、損害賠償請求権が発生するものと解すべきであり、非財産権の侵害の場合に限つて、被害者がこれを請求する意思を表示した場合に、始めて賠償請求権が発生するものと解すべき法文上の根拠は毫もない。また、生命を侵害された場合に、被害者の得べかりし財産上の利益の喪失による損害については、被害者がこれを請求する意思を表示したと否とにかかわらず、当然相続人において被害者の財産上の損害賠償請求権を相続したものとして請求し得るのと同様に、非財産権の侵害による慰藉料請求権も、被害者がこれを請求する旨の意思を表示したか否かにかかわらず、当然金銭債権として、相続人がこれを相続したものと解するのが当然である。
もし、非財産権侵害による慰藉料請求権は、被害者がこれを請求する意思を表示して始めて発生するものとすれば、民法七二四条により慰藉料請求権が、未だ発生しないのに消滅時効が進行するという不合理な結果を生ずることになる。また、被害者が慰藉料請求の意思を表示した場合に限り、慰藉料請求権の相続性が認められるとするならば、被害者即死の場合や、慰藉料請求の意思を表示することができない程の重傷を蒙つた場合などは、常に慰藉料請求権は否定されることになり、かかる重大加害者は常に慰藉料支払の義務を不当に免れる結果となる。更に航空機や船舶の遭難により全員が死亡したような場合には、慰藉料請求の意思表示をした事実の立証は不可能であるから、かかる場合、概ね慰藉料請求権は否定されることになり、甚だ不当な結果となる。
もし、慰藉料請求権の本質が「被害者その人の精神的苦痛を慰藉すること」を目的とするものであるから、被害者の一身に専属する権利であつて、譲渡性、相続性なしというのであれば、仮令被害者がこれを請求する意思を表示したからといつて、にわかに慰藉料が被害者その人の精神的苦痛を慰藉するという性質を変じ、譲渡性、相続性が生ずるいわれはないものと考えられる。
大審院が、明治四三年一〇月三日の判決においては、被害者が加害者に対して慰藉料を請求する意思を表示したときは、相続の対象となるものと解し、大正八年六月五日の判決では、被害者が慰藉料を請求する意思を書面に表示し、これを執達吏に交付しその催告を委任したが、その催告書が加害者に到達する以前に死亡した場合でも、被害者は慰藉料請求の意思を表示したことになるから、その慰藉料請求権は相続の対象となるとしたのであるが、昭和二年五月三〇日の判決では被害者が「残念残念」と連呼しながら死亡した場合には、特別の事情がないかぎり、加害者に対する慰藉料請求の意思表示をしたものと解することができるというに至り、被害者の請求の意思表示の要件を次第に緩和せんとする傾向にあつたものと認められる。慰藉料請求権の相続性につき被害者の請求の意思表示を必要とするとの大審院判例は、今や変更せられるべき時期に来ているものと思料せられる。
要するに、わが民法の建前によれば、いやしくも、非財産権の侵害があれば、財産権侵害の場合と同様、特別の事情のない限り、当然に損害が発生し、したがつて被害者は慰藉料請求権を取得し、これを放棄したと認められるような特段の事情のない限り、相続人に相続せられるものと解すべきであつて、ドイツ民法八四七条等とその立法の建前を異にするものであり、これをわが民法の解釈の資料とすることはできない。また、近代不法行為法の理想にしたがえば、いやしくも不法行為により他人に損害を生ぜしめた以上、その損害が財産的、非財産的であるを問わず、できるだけ広くこれを賠償させるのが、被害者保護の理想にかなうものであり、たまたま被害者が死亡したからといつて、加害者をして、その責任を免れしめる理由がなく、被害者の相続人に対し、賠償を得させることが前記理想に副う所以である。
裁判官田中二郎の反対意見は、次のとおりである。
私は、慰藉料請求権の性質に関する多数意見の見解には賛成しがたく、結論的にも多数意見とは反対に、本件上告は棄却すべきものと考える。その理由は、次のとおりである。
一、多数意見は、慰藉料請求権が発生する場合における被害法益は当該被害者の一身に専属するけれども、これを侵害されたことによつて生ずる慰藉料請求権そのものは、単純な金銭債権であるという。しかし、私は、そうは考えない。そもそも、精神的損害といわれるものは、客観的にではなく、被害者の受ける苦痛その他の精神的・感情的状況の如何によつて決まる主観的・個性的なものであり、したがつて、これらの精神的損害が生じたとして、これに対して認められる慰藉料請求権も、単純な金銭債権とみるべきものではなく、被害者の主観によつて支配される多分に精神的な要素をあわせもつたものと解すべきであろう。かような意味において、多数意見のいうように、単に被害法益が一身専属的なものであるだけでなく、慰藉料請求権も、被害者の現実の行使によつて具体化されるまでは、一身専属的ものであり、したがつて、これを行使するかどうかも、被害者の主観的な感情その他の精神的諸条件や当該被害者が置かれている環境その他の社会的諸条件を無視して決せられるべきものではないという意味において、一身専属的なものと考えるべきであると思う。すなわち、第一に、被害者が精神的損害を受けたと感じるかどうか、およびその程度、態様も、被害者の主観によつて決まることであり、第二に、被害者が精神的損害を受けたと感じた場合においても、それを理由として、慰藉料請求権を現実に行使するかどうかは、被害者の感情その他の内的な精神的諸条件および被害者の置かれている環境その他の外的な社会的諸条件によつて影響されることが少なくないのであるから、被害者の主観を尊重し、被害者自身の全人格的な判断にまつべきものであつて、これらの事情を全く無視し、被害者の意思に基づくことなく、慰藉料請求権が当然に具体的に生ずるものと解すべきではないと思う。
右の点についての私の考え方を要約すると、次のとおりである。すなわち、精神的損害を伴う事故等の発生と同時に、慰藉料請求権は、抽象的・潜在的な形で発生する(したがつて、慰藉料請求権の消滅時効は、この時から起算すべきである。)。この権利は、さきに述べたように、一身専属的な性質を有する。そこで、被害者が自らこの慰藉料請求権を行使することによつて、損害発生時に遡つて、これが具体化され、金銭債権としての損害賠償請求権が具体的・顕在的な形をとるに至る。このように、一身専属的な慰藉料請求権の行使によつて、金銭債権が具体化された後にはじめて、それが、譲渡・相続の対象となり、かつまた、債権者代位権行使の対象ともなり得るものと考えるのである。
二、右のような見地からいえば、慰藉料請求権を具体的に行使するためには、被害者が慰藉料を請求する意思を有するとともに、その意思を外部に表示することを必要とすると解すべきである。すなわち、慰藉料を請求する意思を有するかどうかは、内心の問題として、これを的確に判断することはむずかしいので、何らかの形でこれを外部に表示することを必要とすると解すべきである。かつて大審院が、この点について、幾多の判例を積み重ねてきたのも、被害者保護のために、できるだけ広く慰藉料請求の意思があつたことを推定しようとした苦心の現われといえよう。その結果、時には折巧にすぎ、ひいては、かえつて、慰藉料請求権の叙上の本質を誤つた嫌いがないではないが、被害者の意思の存在とその表示とを必要としたその基本的な考え方においては、無視できないものをもつていると思う。私は、慰藉料請求権を行使するかどうかについても、被害者の主観を尊重する見地から、被害者がこれを行使する意思を有し、しかも、これを外部に表示することを要し、かつ、それをもつて足りるものと解したい。
三、右のように解するときは、生命侵害等の場合――即死その他これに準ずる場合等において、その意思表示の不可能または蓄しく困難なとき等――に、相続人の保護に欠けるというような批判があり得るであろう。しかし、民法七一一条は、被害者の近親のために、生命侵害に対する固有の慰藉料請求権を認めているのであるから、同条の適用を受けるべき近親の範囲および被害法益の範囲等を拡張的に解釈することによつて、その保護を全うすることができ、また、民法七〇九条、七一〇条による慰藉料請求権も、その要件を具備している以上、その請求が可能なわけであつて、被害者本人の主観を無視して慰藉料請求権の譲渡性、相続性を肯認しなければならない実質的根拠に乏しい。
四、ところで、原判決の確定するところによれば、本件被害者はその死亡まで慰藉料請求の意思を表示しなかつたというのであるから、上告人は、右被害者の相続人であつても、叙上の理由によつて、右被害者の慰藉料請求権を相続によつて取得したものとは認めがたく、したがつて、これと同趣旨に出た原審の判断は、結局、正当であつて、本件上告は棄却を免れないものと考える。
裁判官松田二郎の反対意見は、次のとおりである。
(一) 多数意見は次のようにいう。すなわち、「ある者が他人の故意過失によつて財産以外の損害を被つた場合には、その者は、財産上の損害を被つた場合と同様、損害の発生と同時にその賠償を請求する権利すなわち慰藉料請求権を取得し、右請求権を放棄したものと解しうる特別の事情がないかぎり、これを行使することができ、その損害の賠償を請求する意思を表明するなど格別の行為をすることを必要とするものではない。そして、当該被害者が死亡したときは、その相続人は当然に慰藉料請求権を相続するものと解するのが相当である」と。これが本件に対する多数意見の立場であり、すなわち、多数意見はこの立場からきわめて簡単に慰藉料請求権の相続性を肯定する。そして、このような多数意見の見解は、必然に慰藉料請求権の譲渡性の肯定へも導くものと解される。けだし、多数意見は、「慰藉料請求権が発生する場合における被害法益は当該被害者の一身に専属するものである」といいながらも、「これを侵害したことによつて生ずる慰藉料請求権そのものは、財産上の損害賠償請求権と同様、単純な金銭債権である」と主張するからである。すなわち、多数意見のいう「被害者の一身に専属する」という言葉は、慰藉料請求権が沿革的にまた比較法制的に多分に一身専属的のものとされたことに対するいわば一種の儀礼的の表現と解されるのである。要するに、多数意見は、慰藉料請求権を「単純な金銭債権」と解することによつて、その一身専属的性質を実質的に否定し、その譲渡性・相続性を肯定するものである。
しかし、慰藉料請求権は果して多数意見のいうように、単純な金銭債権であり、譲渡性・相続性を有するものであろうか。私は多数意見に反して、該請求権を一身専属的のものと解するのである。けだし、精神上の苦痛そのものが、きわめて高度に個人的・主観的のものである以上、慰藉料請求権はその苦痛を受けたときに生じるものではあるが、その行使の有無は被害者自身の意思によつて決せられるべきものであり、この点においてそれは債権者代位権に親しまないものというべく、また慰藉料は被害者の苦痛そのものを慰藉するためのものであるから、この点でその請求権をば被害者以外の第三者に譲渡し、もしくは相続人に相続せしむべきではないからである。要するに、叙上が慰藉料請求権の本質である。この見解に立つとき、多数意見はきわめて個人的であるところの慰藉料請求権をきわめて非個人的のものと解した点において、誤に陥つたものといわざるを得ない。すでに述べたように、多数意見が「慰藉料請求権の発生する場合における被害法益は当該被害者の一身に専属するもの」というからには、多数意見はすべからくその請求権自体の一身専属性を認めるという結論に到達すべきであつたのである。
(二) 本件は慰藉料請求権の相続性の有無に関するものであるので、この点に関するわが国の判例の跡を概観するに、大審院は慰藉料請求権に関して、明治四〇年代から次のような態度を採つていた。すなわち、その判例によれば、「不法行為に因り身体を害された者が財産以外の損害を填補させるため、加害者に対しその慰藉料を請求する意思を表示したときは、その請求権は金銭の支払を目的とする債権に外ならないものであつて、これに因つて得る金額は、相続の場合には相続人の取得すべきものであるから、被害者の一身に専属するものでない」というのである(大審院明治四三年一〇月三日判決、民録一六輯六二一頁)。思うに、大審院はこの判決に当り、すべからく慰藉料請求権の本質について深く考慮すべきであつたのである。しかるに、判例は、その後も右の立場を踏襲し、更に慰藉料請求権の相続を容易ならしめる方向に進み、「残念、残念」と連呼しながら死亡した場合においてすら、これをもつて「被害者がその被害が自己の過失に出たことを悔んだような特別の事情のないかぎり、加害者に対し慰藉料請求の意思表示をしたものと解し得られざるにあらず」とするに至つた(大審院昭和二年五月三〇日判決、法律新聞二七〇二号五頁)。そして、このような判例の態度によるときは、被害者即死の場合には慰藉料請求の意思表示がないから、慰藉料請求権の相続がなく、これに反して被害者が即死しないで「残念、残念」と連呼したときは、その相続があるというような不均衡を生じることとなる。この点は、従来、学説上、非難されたところであり、多数意見もこのことを特に強く意識した結果、慰藉料請求権をもつて、「財産上の損害賠償請求権と同様、単純な金銭債権であり、相続の対象となるもの」としたのだと思われる。そして、終にその一身専属性を全く否定するに至つたのである。
(三) 多数意見が慰藉料請求権の本質を正解しないことは、右に述べたとおりである。しかも、多数意見にしたがうときは、結果的にも著しい不都合を生じるのである。この点よりしても、多数意見の失当なことは明らかである。私は、次にその二、三の例をあげてみたい。
(1) 多数意見によれば、父親が貧困のため何等子に残すべき財産のない場合でも、父親が他人から侮辱され、時には暴行さえ加えられて精神上多くの苦痛を受けて死亡すると、父親がその生前右の精神上の苦痛につき慰藉料を請求する意思を表明しなくとも、その請求権を放棄したと解される特別の事情のないかぎり、父親の慰藉料請求権は当然に相続され、それだけ多くの相続財産が生じることとなる。相続財産の多寡の点よりいえば、父親が他人から多くの精神的苦痛を受けた上、死亡した方が望ましいこととなるのである。しかも、この慰藉料請求権は相手方の不法行為によつて生じたものに外ならないから、子としては、この慰藉料請求権を行使するに当たつて、相手方から相殺をもつて対抗されることはない(民法五〇九条)。したがつて、この慰藉料請求権はきわめて確実な相続財産ということになるわけである。
(2) 多数意見によれば、事業経営に失敗し、他人より侮辱され軽蔑され精神上多大の苦痛を受けた上破産した者があるとき、破産者が慰藉料を請求する意思を表明しない場合でも、これを放棄したと解される特別の事情のないかぎり、破産者の有するこの請求権は当然に破産財団に属することとなる。したがつて、破産者が破産前、多くの精神上の苦痛を受けていれば、それに応じて破産財団の財産は増加するわけである。しかも、管財人は善良なる管理者の注意を以てその職務を行なうことを要し、その注意を怠るときは損害賠償の責に任ずるから(破産法一六四条)、もし管財人が破産者の有する慰藉料請求権の行使を怠つたときは、損害賠償の責を免れえないこととなるのである。
(3) すでに指摘したように、多数意見にしたがえば、慰藉料請求権の譲渡性はこれを肯定することとなる。したがつて、多数意見によれば、他人から精神上の苦痛を受けた者がその苦痛について損害賠償を請求する意思を表明しない場合でも、その請求権を放棄したものと解しうる特別の事情のないかぎり、その被害者に対して債権を有する者は、被害者が加害者に対して有する慰藉料請求権を差押え、これを取立てまたは転付せしめうる(民訴法六〇一条、六〇二条)こととなるのである。
(4) 「慰藉料請求権が財産上の損害賠償請求権と同様、単純な金銭債権である」ならば、債務者の有する慰藉料請求権をば、債権者は代位行使できることとなる。その債権者もまた代位行使できることとなる。けだし、代位権の代位行使も可能であるからである。
叙上のような設例は、あるいは極端なものと思われるかも知れない。しかし、多数意見にしたがうならば、右のような結果は当然生じうるところである。したがつて、多数意見にしたがうときは、今後慰藉料請求権に関して、きわめて奇矯な訴訟が起り、しかも裁判所としてはこれを認めざるを得ないこととなるのである。
(四) 慰藉料請求権の相続性と関連して考うべき問題が存在する。まず、(イ)慰藉料請求権と民法七一一条との関係をいかに解するかの点である。しかし、私の見解によれば、生命を害されて死亡した者の慰藉料は相続人によつて取得されないから、近親者は同条による固有の慰藉料請求権のみを有することとなる。したがつて、この固有の慰藉料請求権と相続した慰藉料請求権の両者の併存を前提とする問題は生じ得ないこととなる。多数意見は二つの請求権の併存を認めるため、いたずらに両者間の法律関係を錯雑ならしめるに過ぎない。(なお民法七一一条は慰藉料を請求しうる者の範囲を限定したものでなく、同条所定の者に対し、損害発生の挙証責任を軽減したものと解される)。次に(ロ)多数意見によれば、死亡者の遺族は右の両請求権を有しうることとなり、一見遺族の保護に厚いとの観を呈するのである。しかし、慰藉料の額は裁判所が諸般の事情(訴訟において原告の受ける慰藉料の総額もこの事情の一つである)を斟酌して決すべきものである以上、多数意見によつても、遺族の取得しうる賠償額が当然に増加するとはいえない。したがつて、この点は必ずとも卑見に対する反対の理由となり得ない。(ハ)なお慰藉料請求権は、一身専属的権利であるが、その個人的・主観的色彩の減退のため、通常の金銭債権と同視しうべきものに転化する場合がある。一体、慰藉料の額は、おのおのの具体的場合に即して決することを要し、容易に決し難いところであるが、たとえば加害者が被害者の慰藉料の請求に対し、一定額の金員を支払うことを約したような場合、当該請求権は、通常の金銭債権と多く択ぶところなく、これに転化したものと認められる。けだし、この場合慰藉料請求権の個人的・主観的色彩は褪せた結果、客観的には通常の金銭債権が存在するものと考えられるからである。債務名義によつて、加害者が被害者に対し慰藉料として一定額の支払をなすべきものとされた場合も同様である。
(五) 今、叙上の見地に立つて本件を見るに、原審の認定したところによれば、被上告会社の自動車運転手である高橋藤四郎は、昭和三六年八月一六日被上告会社のためその所有の大型貨物自動車を運転して栃木県下都賀郡石橋町四六九番地先国道に差しかかつた際、右自動車を磯太十郎の乗る自転車に衝突させ、よつて同人を死亡するに至らしめたところ、太十郎はその死亡まで慰藉料請求の意思を表示しなかつたというのである。しからば、上告人は太十郎の相続人であるにせよ、太十郎の慰藉料請求権を相続により取得したものとは認め難く、したがつてこれと同趣旨に出た原審の判断は正当であつて、本件上告は棄却を免れないのである。
裁判官岩田誠は、裁判官松田二郎の右反対意見に同調する。
裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
一、ある者が他人の故意過失によつて財産以外の損害を被つた場合には、損害の発生と同時にその賠償を請求する権利すなわち慰藉料請求権を取得するものであることは、多数意見の説くとおりであるが、私は、この権利は行使において一身専属的なものであると考えるのである。
慰藉料は、いうまでもなく、精神的損害の賠償のため支払われるものであり、被害者の精神的、肉体的苦痛を、普遍的な価値である金銭をもつて、消除し軽減せしめようとするわけである。苦痛は必ずしも現在のものに限ることなく、将来苦痛を感ずるであろうことが合理的に期待されるときをも含むと考えるべきであるが、それにしても、現在又は将来において、苦痛を全く感受しないときには慰藉料請求権は発生しない。ところでなんらかの違法な法益侵害があつたときに、苦痛を感受するかどうか、感受するとしてもその程度如何は、人によつて著しい格差があるばかりでなく、同一人に対し同一態様の侵害が加えられても、時により環境に応じ、その苦痛は千変万化するものであつて、財産権の侵害の場合のように同一の加害が同一の損害を生ずるものとは全くその趣を異にする。一般人にとつては、認容の限界を越えた許すべからざる人格権の侵害でも、ある人にとつては格別痛痒を感じない場合もなしとはしないし、その逆もまた考えられないわけではない。さらにまた。ある不法行為によつてある人が苦痛等を感じたとしても、これを請求することを憚る事情の存在することもまたあり得るのである。要するに精神上の損害は極めて個性的なものであつて、その賠償請求権の行使は当該本人の自由なる意思にかからしめることを相当とし、したがつて、権利者以外の第三者が代つて行使することは許されない性質を有するのである。慰藉料請求権が発生する場合における被害法益は、多数意見の認めるごとく、一身専属であるが、それだけにとどまらず、慰藉料請求権は行使において一身専属であり、権利者が行使しない以上相続、差押等の目的にはならないと解するを相当とする。
而して、一旦権利者によつて行使されるならば一身専属性は解消し、通常の金銭債権となるのであるが、請求権は義務者に対し一定の行為を請求することを内容とするものであるからして、その行使は、義務者に対する明確な意思表示によつてなされなければならない。死に臨んで被害者が残念だと絶叫してもそれを以て請求権の行使とすることはできないのである。
二、次に、死者につき、死亡したことそのものを原因とする慰藉料請求権の取得が認められるであろうか。多数意見はそれを自明のこととしているようである。しかし苦痛は生きておればこそ感受できるものであり、そしてまた人は死亡によつて権利主体たることをやめるわけである。死者が死亡を原因として慰藉料請求権を取得するとするためには、死亡による苦痛を死者自身がこれを感受し、死亡の瞬間に、死者が慰藉料請求権を取得する、すなわち死前に死があり、死後にまた生がある、という奇異なる論理を肯定した上でなければなるまい。この間にいかなる巧妙な法律的操作を施しても、かかる非論理性は、所詮、救われないのである。民法七一〇条は、慰藉料請求権の被害法益として、身体、自由、名誉および財産権を列挙している。これが限定的なものでないとしても、被害法益の尤たる生命侵害に全くふれるところがないのは、七一一条と対比した場合、極めて示唆的である。生命を侵害された死者自身が慰藉料請求権を取得するという法理は、結局、わが民法の認めないところではあるまいか。
三、さきに述べたごとく、生命侵害の場合でも、即死でなく、受傷後死亡までに若干の日時があり、その間に慰藉料請求権を行使したものであるならば、この権利は死亡によつて相続され、民法七一一条等による相続人固有の慰藉料請求権と併存することになる。そうだとすると、即死したとき又は被害者本人が存命中に慰藉料請求権を行使しなかつたとき、すなわち相続の対象となる慰藉料請求権が存しないときは、前記の併存の場合に比し、形の上では、一見甚だ不利益であつて権衝を失するかのごとくである。しかし二本だてが一本だてに比べてより有利だということには必ずしもならないのである。けだし、慰藉料の額は裁判所の自由なる心証によつて量定されるものであるが、それにしても、相続による慰藉料請求権取得の有無は、民法七一一条等に基づく当該相続人に固有な慰藉料請求権の額を算定する場合に当然参酌されるべき事情であつて、相続による慰藉料が多額であれば、相続人の苦痛はそれだけ軽減されるのであるから固有の慰藉料はこれに応じて低かるべきであり、反対に、即死の場合のように、被害者が肉親の看護を受けず、後事を託する余裕もなかつたようなときは、相続できる慰藉料請求権こそなけれ、遺族の苦痛は甚大であるが故に、固有の慰藉料請求権は自ら大とならざるを得ないからである。もつとも叙上の見解にたつと、遺族ではあるが、民法七一一条に列挙されたところに該当せず、そしてまた、内縁の妻その他これに準ずるような特別の間柄(これらの遺族は、民法七〇九条、七一〇条に基づく固有の慰藉料請求権を有すると考える。)にもない者にとつては、被害者である被相続人において慰藉料請求権を取得しない以上、加害者に対し慰藉料の請求をすることはできないわけである。しかし、これらの者は、当該被害者の死亡に因つて深刻な精神的打撃を受けないが故に、固有の慰藉料請求権を取得し得ない立場にあるのであるから、相続すべき慰藉料請求権が存在すれば格別、そうでない場合においても、単に相続人であるというだけで、利益を受ける結果となるのは妥当を欠くといわなければならない。したがつてかくのごとき遺族について慰藉料請求権を否定することは、加害者をして不当に義務を免かれしめることになるという非難には、到底同調できないのである。
四、慰藉料の種類を多く認めることが必ずしも、被害者側の救済を厚くする所以ではないことは上述のとおりであるが、私は、もともと不法行為による損害賠償請求事件、特にいわゆる人身事故の訴訟事件においては、主力を逸失利益の算定にそそぐべきであつて、安易に慰藉料によりかかるべきではない、と考えているものである。もとより私といえども、かかる訴訟において現在慰藉料の果している役割をしかく軽視するわけではない。逸失利益の算定には、幾多の困難があり、算定の基礎たるデータも多くは不確定、不安定なものであるから、結論たる裁判の具体的妥当性を追求するために、自由に量定し得る慰藉料を以て、判断過程の欠陥を補充する必要を生ずることは否めない事実であろう。しかし、裁判は本来、法律が規定している構成要件の存否を確定し、これに法規をあてはめて法律効果を定める法律的価値判断であるから、事後における客観的な検証に堪え、また特に事前において予測可能性のあることが要請されるものであり、合理的な思惟と共通普遍な論理を以てすれば裁判の結論が自ら流出する底のものであるのが望ましいのである。一言でいえば裁判は水ものであつてはならないのである。しかるに慰藉料の算定には未だ何らの規範もないのであつて、要するに被害者および加害者をめぐるあらゆる事情に基づき公平なる観念にしたがつてきめるものだ、というにすぎない。しかもいかなる事情をいかなる程度に参酌してその量定をしたかということは判示することも困難であり、またその必要もないことになつている(大判昭和八年七月七日、民集一二巻一八〇五頁参照)のであるから、ともすれば裁判官の主観に流れる傾向なしとはしないのである。将来、判例の集積によつて慰藉料が概ね定型化された場合ならばとにかく、少くとも現在の段階において慰藉料のいわば調整的機能に過度に傾斜することは戒心すべきであり、その意味から慰藉料の種類を複雑にすることには賛成し難いのである。
五、ところで本件について見ると、被上告人の雇人である自動車運転者訴外高橋藤四郎は被上告人のために貨物自動車を運行中、過失によつて訴外亡磯太十郎に右自動車を衝突せしめたこと、そのために重傷を負つた同人は一二日後に遂に死亡したのであるがその間前記傷害による慰藉料請求の意思を表示しなかつたものであること、以上は原審の認定するところであるから、太十郎の妹である上告人としては、民法七〇九条、七一〇条によつて独自に慰藉料の請求をする場合は格別、相続を理由としてはこれを請求し得ないと解すべきである。したがつて、これと同趣旨に出た原審の判断は正当であつて、本件上告は棄却すべきものと考える。(横田正俊 入江俊郎 奥野健一 長部謹吾 城戸芳彦 石田和外 田中二郎 松田二郎 岩田誠 下村三郎 色川幸太郎 大隅健一郎)(柏原語六は、退官のため署名押印できない。)
上告代理人高橋方雄の上告理由<省略>